NHKラジオ英語番組『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』
2025年7月9日(水)放送分
アメージング・ストーリー
『Saving 669 Children』
669人の子どもを救った英雄
全文和訳してみました。
英語学習の参考にしてくださっている方もおられますので、訳し方が異なる2パターンで日本語訳をしました。
- スラッシュリーディング訳
英文を前から訳す
意味はほぼ直訳
テキスト巻末のWord Listの訳を使用しています - 自然な日本語訳
英文を後ろから訳す(返り読み)
意訳を含み日本語らしい文章
森崎ウィンさんのオープニングとエンディングトークも、書き起こししています。
お役に立てれば幸いです。
テキストには英文スクリプトのみ掲載されています。
オープニング 森崎ウィンさんのトーク
Enjoy Simple English.
森崎ウィンです。
毎週水曜日は「Amazing Stories」
今日は「Saving 669 Children」
第二次世界大戦直前のチェコスロバキア。
ひとりのイギリス人男性による、子供たちの救出劇に迫ります。
聞いてみましょう。
Saving 669 Children – 669人の子どもを救った英雄
訳し方が異なる2パターンの和訳をしています。
- 放送を聞きながら英語の語順で意味を取りたい場合
→ スラッシュリーディング訳をご覧ください - 物語の全体的内容を理解したい場合
→ 自然な日本語訳バージョンをご覧ください
スラッシュリーディング訳バージョン
英文を前から訳し、意味はほぼ直訳です。
放送を聞きながらや、テキストの英文を読みながら意味が取れるようになっています。
和訳だけを読むと不自然に感じられる部分がありますこと、ご了承くださいませ。
「もし何かが不可能でないなら、それなら / 方法があるはずだ / それを行うための。」
これらは言葉である / ある優しい男性の / 何百の命を救った / 第二次世界大戦が始まる直前に。
何を彼はしたのか?
知りましょう / この驚くべき物語を聞くことによって。
1938年12月、あるイギリス人ビジネスマンは / ニコラス・ウィントンという名の / ニッキーとしても知られる、チェコスロバキアのプラハにいた。
彼はそこにいた / なぜなら / 彼は聞いた / 多くの人々が恐ろしい状況にいると、そして / 彼は助けたかったのだ。
3ヶ月前、兵士たちが / ナチス・ドイツからの / 来ていた / チェコスロバキアへ。
多くの人々が、特にユダヤ人が、恐れていた。
そこで / 彼らは離れた / 彼らの家を / そして / プラハへ行った / 難民として。
ニッキーは訪れた / 難民キャンプを / そして / 見た / 人々が生活しているのを / 寒く、湿ったテントで / ほとんど食料も暖房装置もなしで。
「もし私がしなければ / 何も、ナチスが来るかもしれない / そして / 全員を連れ去ってしまうかもしれない。」
ニッキーは考えた / 可能かもしれないと / 子供たちを救うことが。
彼は滞在した / プラハに / 約1ヶ月間 / そして / 取り組んだ / ボランティアグループと / リストを作ることに / 全ての子供たちの / 救助される必要のある。
イギリスに戻った後、ニッキーは話した / 政府関係者に / 彼の計画について。
最初、彼ら(政府)は言った / 彼(ニッキー)にだめだと、しかし / ニッキーは諦めようとしなかった。
ついに、彼ら(政府)は言った / ニッキーに / 子供たちが来れると / もし彼ら(子供)にあるなら / 滞在する場所 / と / 十分なお金が / 将来プラハに戻るための(お金)。
ニッキーは働いた / お金を集めるために。
彼はまた探した / 家族を / 子供たちのために。
これ(資金集め)は難題だった / なぜなら / ほとんどの家族は持っていなかったからだ / 余分なお金を。
ついに、1939年3月、数ヶ月後 / 一生懸命な活動の、最初のグループが / 子供たちの / 到着した / イギリスに。
彼らは続けた / 来ることを、そして / 8月末までに、合計669人の子供たちが無事に到着していた / イギリスに。
別のグループは出発する予定だった / 9月1日に、しかし / 悲しいことに / それはできなかった / なぜなら / 第二次世界大戦が始まっていたからである。
ニッキーは深く傷ついたので / 彼は決して話すことができなかった / 助けたことについて / チェコスロバキアの子供たちを / 二度と。
(構文:so ~ that ~.)
約50年後 / 1988年、ニッキーの妻が見つけた / 1冊のノートを / 1939年の。
その(ノートの)中にあった / 名前のリスト / と / 子供たちの写真が /ニッキーが救助した。
BBCは知った / これについて / そして / ニッキーを招待した / ゲストとして / テレビ番組に。
その時(TVに呼ばれる)までに、彼は80歳近かった。
その番組はまた招待していた / 多くの子供たちを / ニッキーが救った、しかし / 彼(ニッキー)は知らなかった / これ(子供の招待)について。
ある時点で / その番組の、司会者が言った、
「どうぞお立ちください / もしニコラス・ウィンストンが救ったのなら / あなたの命を。」
突然、全ての人々が / 彼の周りに座っている / 立ち上がった。
ニッキーは微笑んだ / そして / ぬぐった / 彼の涙を。
今(TV放送されて) / 皆が知った / 彼の物語を。
ニッキーは亡くなった / 2015年 / 106歳で。
ニッキーは変えた / 人生を / 非常に多くの人々の / なぜなら / 彼が見つけたからだ / 方法を / するための / 何かを / 不可能のように見えた。
自然な日本語訳バージョン
英文を後ろから訳し(返り読み)、意訳も含み日本語らしい文章にしています。
「不可能でなければ、方法はあるはずだ」
これらは、第二次世界大戦直前に何百もの命を救った、ある優しい男性の言葉である。彼は何をしたのか?この驚くべき物語を聞いて知ることにしよう。
1938年12月、ニコラス・ウィンストン(愛称ニッキー)という名のイギリス人ビジネスマンが、チェコスロバキアのプラハにいた。彼は、多くの人々が恐ろしい状況にあると聞き、助けたくて、そこにいた。
三ヶ月前、ナチス・ドイツの兵士たちがチェコスロバキアに来ていた。多くの人々が、特にユダヤ人が恐れていた。それで、ユダヤ人は家を離れ、難民としてプラハへ行った。
ニッキーは難民キャンプを訪れ、食料も暖房もほぼない寒く湿ったテントで、人々が生活しているのを見た。
「もし私が何もしなければ、ナチスが来て全員を連れ去ってしまうかもしれない。」
ニッキーは、子供たちを救えるかもしれないと考えた。彼は約1ヶ月間プラハに滞在し、救助が必要な全ての子供たちのリストを作成することに、ボランティアグループと取り組んだ。
イギリスに戻った後、ニッキーは政府高官に計画を話した。最初、政府は断ったが、ニッキーは諦めようとしなかった。ついに、政府はニッキーに言った、滞在する場所と将来プラハに戻るための十分なお金があれば、子供たちが来ても良いと。
ニッキーはお金を集めるために活動した。また、子供たちのために家族も探した。ほとんどの家族が余分なお金を持っていなかったため、資金集めは難題だった。
ついに、1939年3月、懸命な活動から数ヶ月後、子供たちの最初のグループがイギリスに到着した。子供たちは渡英を続け、8月末までに合計669人の子供たちが、無事イギリスに到着していた。
別のグループは9月1日に出発する予定だったが、残念なことに出発できなかった。第二次世界大戦が始まっていたからである。ニッキーは深く傷つき、チェコスロバキアの子供たちを助けたことについて、二度と話すことができなかった。
約50年後の1988年、ニッキーの妻が1939年のノートを見つけた。ノートには、ニッキーが救助した子供たちの名前のリストと写真があった。BBCはこれを知り、テレビ番組のゲストとしてニッキーを招待した。その時には、ニッキーは80歳近かった。
番組はまた、ニッキーが救った多くの子供たちも招待していた、だがニッキーは知らなかった。
番組のある時点で、司会者が言った。
「ニコラス・ウィンストンに命を救われたという方、どうぞお立ちください。」
突然、彼の周りに座っている全ての人が立ち上がった。
ニッキーは微笑み、涙をぬぐった。今や皆が彼の物語を知ることとなった。
ニッキーは、2015年に106歳で亡くなった。ニッキーは、不可能に見えることを可能にする方法を見つけたことで、非常に多くの人の人生を変えたのである。
エンディング 森崎ウィンさんのトーク
669人の子供たちを救ったニッキーさん、素晴らしい!
この物語はですね、語り継がれていくべきだと思います。
See you tomorrow.
参考リンク
- ニコラスさんの訃報を知らせるイギリスのニュース映像です。
功績、ゲスト出演したTV番組、生前のニコラスさんのインタビューがおさめられています。
- 2024年、この物語を基にした映画が公開されました。
英題:『ONE LIFE the true story of Sir Nicholas ‘Nicky’ Winton』
邦題:『ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命』
主演:アンソニー・ホプキンス
制作:2023年、イギリス
公開:2024年、イギリス、日本、その他各国